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In the Beginning

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QmLALuN498

"When I use a word," Humpty Dumpty said, in rather a scornful tone, "it means just what I choose it to mean——neither more nor less."
"The question is," said Alice, "whether you can make words mean so many different things."
"The question is," said Humpty Dumpty, "which is to be master——that’s all."
——Lewis Carroll, Through the Looking-Glass
「私が言葉を使うときは」と、ハンプティ・ダンプティは言った。ちょっと馬鹿にしたような言い方だった。「私が意味したいものを意味する——それ以上でも以下でもない」
「問題なのは」と、アリスは言った。「そんなにたくさんの違った意味を表せるかどうかってことよ」
「問題なのは」と、ハンプティ・ダンプティは言った。「どちらが主人かってことだ——それだけだ」
——ルイス・キャロル, 『鏡の国のアリス』

書物の伝えるところによると、被造物たる最初の人間が生きとし生けるものすべてに名前をつけて、以後それが名づけられたものの名前になったということだ。が、私は最初の人間ではないので、名前をつけるのが苦手だ。最初の子供に名前を付けるときにもおおいに迷い、結局、考えるのをやめて、書物を開き、そこに出てくる、「子」とも「光」とも呼ばれた人の言葉を日本語に訳して使った。はたして、そんなことをする必要があったのかどうか、親を親とも思わないような発言を連発する子供たちを見ていると、「ブージャム」とか「じゅげむ」とか適当な名前をつけてやればよかったのではないか、と思ったりしないでもない。

しかし、どんなに適当に見える名前でも、ある日、適当ではなくなってしまう。たとえば、大江健三郎氏の小説では、語り手が自分の息子を「イーヨー」と呼ぶ。もちろん、『くまのプーさん』に出てくる驢馬の名である。かつて、「ジン」とも呼ばれた、あの一見頭が弱そうに見えて、時にとんでもない聡明さを発揮する存在を、「イーヨー」以外の名前で呼ぶことはもはやできない。同じように、わが子たちも別の名前で呼ぶことはできなくなっている。子どもたちは、親たちの思惑を越えて、それぞれ自分の生と自分の名前を生き始めるものなのだ。

固有名は、言語理論の躓きの石である。だから、言語学や他の言語理論は、固有名などなかったことにしてさっさと先に進んでしまう。これは、子どもに外国語、たとえば英語を教えるときにわかることだが、英語で固有名を書くときには語頭の文字を大文字にしなければならないことを伝えるために、固有名を一般的に説明しようとすると、教えるこちら側がすでに論理の一貫性を維持できていないような居心地の悪さを感じる。「固有名詞は世界に一つしかないもので…」などと言い始めたらもはや説得力はない。だから、「人の名前や国名は大文字で書き始めるように」などと言ってすませてしまう。同姓同名はありふれているし、私たちの周りには「世界で一つしかないもの」が有り余るほど存在するからだ。

偉そうに説明しつつ、教師はその説明の限界を噛みしめているのである。

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たとえば、あくまでたとえばのことだが、二冊の教科書を比べてみる。一冊目は、Greenbaum & Quirkの"A Student’s Grammar of the English Language"(1990年)である。昔日の権威はなくなったとはいえ、親版の大冊A Comprehensive Grammar of the English Language(1985年)は今でも現役の文法書だが、こちらは高校生くらいの文法教科書といったところだろうか。

この本は固有名をこう解説する。

Proper nouns are basically names, by which we understand the designation of specific people (Gorbachev), places (Tokyo, Park Lane) and institutions (The South China Morning Post, Thames Polytechnic). But as can be seen from these examples, names embrace both single-word nouns (Tokyo) and quite lengthy phrases, often incorporating a definite article as part of the name with or without premodifying items (The Hague, The (New York) Times). Moreover, the concept of name extends to some markers of time and to seasons that are also festivals (Monday, March, Easter, Passover, Ramadan).
固有名とは、基本的に、ものの名前であって、われわれはそれで、特定の人(ゴルバチョフ)、場所(東京、パーク・レーン)、組織(南華早報、グリニッジ大学)が名指されているのを理解する。だが、これらの例からわかるように、名前というのが一語の名詞の場合(東京)もあるし、たいへん長い句で、しばしば定冠詞を名前の一部としてともない、修飾語句があったりなかったりする場合もある(ハーグ、(ニューヨーク)タイムズ)。さらに、名前の概念は、時間を区切る印や、いろいろな祝祭を示す時期にまで拡張される(月曜日、三月、イースター、過越、ラマダン)。

何でも固有名になってしまいそうな勢いである。実際、この「拡張」はどこまでも延長することができて、何でも固有名になりうるのだ。英語圏の哲学的伝統、ノミナリズムの伝統が今でも生きているのだ、と考える人もあろう。ジョン・ロックによれば、個物だけが実在であって、それぞれの個物にそれぞれ名辞がついていては「不便だから」、一般名(general terms)を使うにすぎない。いうなれば、個物につけられた名前はすべて、固有名なのだ。現代英語の書字法では書き方に決まりがあるので、そう見えてしまうけれども、語の形式を問題にしているわけではない。ロックの時代にはもっと自由に大文字を使っていた。勿論、現代の言語学者たちはこのようなことは言わない。語がものにつけられたラベルのようなものだという考え方を支持する人は、たぶん、一人もいない。

さて、もう一冊は、The Cambridge Grammar of the English Language(2002年)ではなくて、Greenbaum & Quirkのちょうど330年前に出版された、Arnauld & Lancelotの『一般理性文法(Grammaire générale et raisonnée)』(1660年)である。17世紀の知的選良は固有名をこのように説明する。

Nous avons deux sorte d’idées; les unes qui ne nous représentent qu’une chose singulière; comme l’idée que chaque personne a de son père et sa mère; d’un tel ami, de son cheval, de son chien, de soi-même, etc.
…..
Ils sont appelé nom propre ceux qui conviennent aux idées singulières, comme le nom de Socrate, qui convient à un certain philosophe appelé Socrate; le nom de Paris, qui convient à la ville de Paris.
われわれは二種類の観念を持っている。一つは、単独なものだけをわれわれに思い起こさせる観念で、それぞれの人がその父親や母親、特定の友人、自分の馬や犬、自分自身についてもつ観念がそれである。
….
単独の観念に適合するものは固有名と呼ばれる。ソクラテスという名が、一人のソクラテスと呼ばれる哲学者に適合し、パリという名が、パリという都市に適合するように。

語の形式ではなく、「単独なものをわれわれに思い起こさせる観念」につけられた名前が固有名なのだ、ということだろう。抽象的な説明に見えるかもしれないけれども、なんとなく腑に落ちる感じがする。「父親や母親、特定の友人、自分の馬や犬、自分自身」について、思い当たるものがあるからだ。"Bucephalus"とか「オグリキャップ」などという「名前」が浮かぶ人もいるだろう。

"Bucephalus"も「オグリキャップ」も、もはや存在しなくなっているが、それを思い起こさせる観念につけられた名前なので、固有名としての資格は変わらない。それがかつて現実に存在し、自分の影に怯えたり、最後の日本ダービーで優勝して引退した馬を思い起こさせているかどうかは、ここでは問題にされていない。それは、『論理学(La Logique ou l’art de penser)』(1662年)が取り扱う主題となるだろう。

だが、かつて愛したが、もうこの世に存在しない恋人の名を思い出すことができないとき、われわれの心を通り過ぎるものを何と名づければよいのか?

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固有名詞の「意味」があるとしたら、それは言語的なものでも論理的なものでもない、私たちが生きているという事実からしか来ないものなのだろう(生きるのに必要な観念というものもある)。いつからかはわからないが、ある日、私にとってかけがえのないものとなった存在がその名で呼ばれる。その名が普通名詞に分類されるか固有名詞に分類されるかは関係がない。だから、あなたが自分の妻を、「もの」と呼んでも、「曙」と呼んでもかまわない。第64代横綱の曙ではなく、ゴーモン社の文芸部長だったジャン・ジロドゥが『エレクトル』の最後で使い、ジャン-リュック・ゴダールが『カルメンという名の女』の最後に引用した台詞である、と言ったところで、何も変わるわけではない。

– «Oui, explique ! Je ne saisis jamais bien vite. Je sens évidemment qu’il se passe quelque chose, mais je me rends mal compte. Comment cela s’appelle-t-il, quand le jour se lève, comme aujourd’hui, et que tout est gâché, que tout est saccagé, et que l’air pourtant se respire, et qu’on a tout perdu, que la ville brûle, que les innocents s’entretuent, mais que les coupables agonisent, dans un coin du jour qui se lève ?»
– «Cela a un très beau nom, femme Narsès. Cela s’appelle l’aurore.»
– そうよ、説明してちょうだい! すぐには、わからないわ。何かが起こったのはわかるけれど、うまく説明できません。いつものおり、日が昇って、すべてが台無しに、めちゃめちゃに荒れ果てて、それでも息をして、みんな全てを失い、街は燃え、罪のない人は持ちこたえていても、罪ある人は昇る日の中で死にかけている、それを何と言えばいいのかしら?
– たいへん美しい名前がついていますよ、ナルセスの奥様。それは曙と呼ばれるのです。

"Prenom Carmen"、pré-nom、名前の前にくるもの?

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さて、このサイトにも名前が必要なのだという。「適当につければよい」というのはそうなのだが、この「適当」や、それに似た「でたらめ」というのが、われわれ被造物にはとても難しい。Ghoré Uk’htisなどという言葉を生み出すのは、もはや人間を越えて、何か触れてはいけないものに触れてしまうような体験をした人にちがいない。私には、とてもじゃないが、真似のできる芸当ではない。

それなら、ということでコンピュータにやってもらうことにした。お手軽なPHPで、下のコードを実行してみた。

実行結果。

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クラックしたパスワードの一覧のように見えなくもないところが笑えない。2行目をタイトルに使ってみた。

「クムラルン498」

新たに発見された元素の名前とも見えるし、タイかマレーシアあたりの都市名のようにも見える。

Cela s’appelle QmLALuN498.
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最初の投稿がこんな駄文では、先が思いやられる。しかも、結びの言葉はだれもが予想できる一語なのだ。正確さとも規範とも無縁のサイトにはふさわしいであろう。

Inpenetrability!